無意識化される父権主義
富山市議会の不正受給事件を追った映画「はりぼて」。その共同監督を務め注目されたチューリップテレビのキャスター五百旗頭幸男が、石川テレビに移籍後、新たに撮ったドキュメンタリーである。
作品は3つの素材から構成される。第一の素材は、石川県知事として7期にわたる長期政権を築いてきた谷本正憲と、谷本に代わる新知事に名乗りを上げた馳浩。両者の会見や選挙運動の様子をとらえたパートである。
想田和弘監督の「選挙」(07)や、大島新監督の「なぜ君は総理大臣になれないのか」(20)にも描かれていたように、十年一日、いや五十年一日と言ってもいい旧態依然な政治風景は、ここでも健在だ。ブレない日本の政治、変わらぬ政治家たちの素顔が、五百旗頭の手によってむき出しにされていく。
第二の素材は、インドネシアで出会ったという松井誠志・ヒクマ夫妻とその子供たち。金沢モスクの管理人を務める松井らムスリム一家が、日本社会の同調圧力に耐えて生活する日々にスポットが当てられる。
第三の素材は、バンライファーと呼ばれる二組の車中生活者だ。一組は、都会でのサラリーマン生活に疑問を抱き、フリーランスとして企業広報に携わりながらバンライフを送る中川生馬と妻の結花子、そして娘の結生。もう一組は、自由を求めて会社を辞め、バンライフを選んだ秋葉博之と妻の洋子。
社会のしがらみを逃れようと外に飛び出した彼らが不自由さに直面するという皮肉な現実を、五百旗頭の挑発的なインタビューが暴いていく。
「裸のムラ」というタイトルがズバリ標的にしているのは、第一の素材だろう。役所や政党という狭いムラ社会の中で、上位者への忖度と服従が不文律となり、偏見や差別が罷(まか)り通る。口にする言葉は空疎で中身がない。
谷本が会見を開くとき、女性職員が必ずガラス製の茶器とグラスをセットする。そのルーティーンは、馳が知事になっても変わらない。当選時の花束贈呈も女性の担当だ。手渡したらすぐに降壇。無感情なロボット作業は女の仕事なのだ。
「この汗を 流してつかむ 新時代」。「動かそう 春の石川 新時代」。
“俳句”を嗜(たしな)む馳浩は、演説で必ず五七五のスローガンを口にする。自民党では新旧で言うと旧の側に属していた馳。新時代をどう築くのか? 五百旗頭が問うても、明快な答えを返さない。意味のない言葉遊びなのだ。
馳の応援に駆けつけたのは、同郷の大先輩・森喜朗。「神の国」発言での謝罪や、「有権者は寝てくれればいい」の失言騒動など、五百旗頭は過去のニュース映像を効果的に組み込みながら、政治という茶番劇を丸裸にしていく。
極め付きは、ポエマーこと小泉進次郎のこのセリフ。「能登半島が日本海に突き出ている。私はこれを馳さんのガッツポーズと思ったんです」。爆笑である。
だが、「裸のムラ」の住民にとっては、あながち冗談ではないのかもしれない。
第二、第三の素材は、第一の素材で標的となった「裸のムラ」へのアンチテーゼ。そんな先入観で見たが、必ずしもそうではなかった。
たとえば、中川が娘の結生に義務付けている日記。結生はいやいや書いているのだが、それを父親には言えないでいる。自分の意思を父親には伝えられないのだ。忖度と服従。中川は自由に育てているつもりだが、我知らず父権主義に染まってしまっているのだ。
それは五百旗頭にとって想定外だったかもしれない。第二、第三の素材は、第一の素材を際立たせるのに格好の材料になるという目論見があったはずだ。ところが、撮影とインタビューを始めて、予想を裏切られた。だが、五百旗頭は編集でごまかさず、ありのままの記録を生かした。
そこで浮かび上がったのは、ムラの精神の執拗さ、根深さである。自分は断じてムラ人ではないと信じていても、ムラの精神はいつのまにか無意識へと侵入し、ムラ人にしてしまう。侮(あなど)るなかれ、ムラ社会。
裸のムラ
2022、日本
監督:五百旗頭幸男
公開情報: 2022年10月8日 土曜日 より、東京・ポレポレ東中野、石川・シネモンド他 全国ロードショー
公式サイト:http://www.hadakanomura.jp/
コピーライト:© 石川テレビ放送
配給:東風