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「どうすればよかったか?」藤野知明監督 単独インタビュー

2024年12月5日
姉に統合失調症の症状が出た。父母は「問題ない」と言うが、そんなわけはない。藤野監督はやむに已まれず、ビデオを回し始めた。

姉を元の姿に戻したかった

統合失調症で別人と化してしまった姉を元の姿に戻したい。両親を説得し姉に精神科を受診させたい。そんな一心から家族をビデオカメラで撮り続けた藤野監督。20年にわたる家族の葛藤と亡姉への思いを語ってくれた。

姉の症状をめぐり両親と対立

――オープニングは、家族写真が映し出された後、真っ黒な映像に女性の激しい罵倒の声。いきなりの衝撃です。あれはお母様の声ですか?

いや、あれは姉です。

――「どうして家から分裂病が出なきゃなんないの?」というセリフがあります。てっきりお母様かと思いました。

姉が自分のことを客観的に見て、そう言っているんです。僕は家族だからもちろん区別できるんですが、映画を見た人の中には、母の声だと思った人も多いようですね。

――録音されたのは1992年ですか。最初に統合失調症の症状が現れてから9年たっているわけですけど、その間、弟として、どんな気持ちで過ごしていたのでしょう。

混沌とした気分でした。両親は「全く問題ない」と言っている。しかし、僕には問題がないとはとても思えない。統合失調症の可能性は高いと思っていました。そんな僕と両親がいくら話しても、収拾がつかないから、口論になって、一日中喧嘩している。そんな状態が日常茶飯事でした。

――ご両親との関係はあまりよくなかったのでしょうか。

そうですね。父の還暦祝いで写真を撮っても、僕はカメラのほうを見ていないんですよね。仲のいい家族なんか演じてたまるか。そんな意識があった。これは今も覚えていますね。

――ふだんはお父様が単身赴任で不在なので、三人でいることが多かったんですよね。

父が単身赴任したのは、僕が小学校三年生くらいの頃ですかね。当時は単身赴任という言葉がなかったので、別居と言われましたけどね(笑)。家事は、祖母や家政婦の女性が住み込みでやってくれていました。母が仕事から帰ってくるのが8時とか9時とかでしたので、その方たちが晩御飯を作ってくれていましたね。

――お母様はどんな方だったんですか。

僕にとっての母親のイメージというのは、当時、一般的だった母親像とだいぶ違うと思うんです。母親の趣味は不動産を買うことだったんですよ。当時バブルだったこともあり、必要もないのに、マンションとか買うんですよね。何に使うわけでもなく、がらんとした部屋に卓球台を置いてピンポンする(笑)。最終的には全部売っちゃいましたけどね。実験も両親が共同でやってましたけど、実験そのものをやるのは主に母親なんです。

――映画でもお母様が実験道具を見せる場面がありますね。

けっこう器用なんですよね。ただし、研究の方向を決めたりするのは父で、イニシアティブを握っているのは父。姉への対処のしかたも父が決めていました。

――映画を見る限り、お母様はかなり気の強い方で、監督がお姉様について何か言っても、それを頭から全否定するようなところがありますね。

まあ、反射的にああ言ってるんだと思うんですけど、母はどっちかというと中間的なポジションで、父の立場を代弁しているに過ぎない。だから、母の意見というのは実は父の意見なんです。

大学で人間関係につまずく

――お姉様が医学部に進学したのは、ご両親の意向ですか。

父も母も「医学部へ行け」とは言ってなかったと思います。姉はきっと両親の願望を忖度したんじゃないかと思います。医師や研究者になれば両親が喜ぶだろう。そう考えて勉強し、いい成績をとって医学部に行く。それがとりあえずの大きな目標だったんじゃないでしょうか。そこから先、何をしたいかというのは、一度も聞いたことがありませんでした。

――成績優秀だったお姉様ですが、合格に至る道のりは険しかったようですね。

現役で合格するものと期待されていた姉ですが、2年浪人した後、医学部以外の学部に入学・中退することを二度繰り返し、4回目の受験でようやく合格を果たしました。

――入学後も苦労は続くんですよね。

「解剖実習」が必修科目だったんですが、それを落としちゃうんですよ。両親から聞いた話なので、どこまで事実か分かりませんけど、人間関係につまずいて落としちゃったらしい。

――何かあったんですか。

大学の中で姉が統合失調症かもしれないから、「皆さん、姉のことを気遣ってあげましょうね」みたいなことを先生が言ったらしいんですよね。それは学生たちからの進言があったっていうんですけど、両親はそのことにひどく怒っていた。学生は医師ではないのだから、そんなこと言う立場じゃないと。進言を聞き入れた大学側も問題だというんで、大学に抗議しに行ったらしい。僕は実際のところ統合失調症だと思っていたので、大学側は間違っていなかったと思うんですけどね。

――結局、医学部では医師免許が取れなかったわけですね。

そうですね。だから医師でもないし、博士でもないんですけど、両親は姉を研究者として育てたいという気持ちはあったんじゃないですかね。自宅で研究を手伝わせ、最後は3人の連名で論文を出してましたから。父はそれをお棺に入れてました。

入院して状況は劇的に変化

――家に閉じこもっていたはずのお姉様が、一人でニューヨークに行ってしまったエピソードには驚きました。

昔から、両親が海外の学会へ出席するとき、一緒について行ったりしてましたし、海外は慣れてました。英語も得意でしたからね。渡航費は、両親が積み立てていた個人年金を解約し、300万円くらいをアメリカの詐欺団体に寄付しちゃって、残りのお金でニューヨークまでの片道切符を買って行ったわけです。そういう能力はあるんですよ。でも、アメリカに着くとすぐに、問題のある人がいるということで騒ぎになったみたいで、慌てて母が飛んで行って、連れ戻したようです。

――アメリカの紳士録に大統領と同じ扱いで名前が載っているのにもびっくりしました。

何百人も集まる世界的な会議のチェアマンをやってくれという連絡もきましたよ。それは件(くだん)の団体からで、送金させる口実としてそういうことを言ってくる。人間は社会の中で多様な人と出会い、自分の役割を果たしながら、自分が何者なのかを理解していくわけですよね。姉は社会から隔てられて家に閉じこもった時点でそれが途切れちゃったんで、自分が何者かが分からなくなっているわけです。そういうときに、チェアマンになってくれと言われたり、紳士録に名前を載せたいと言われたりしたら、その気になってしまいますよね。そういう形で社会から食い物にされていたわけです。

――でも、2008年にお父様がようやく納得されて、お姉様は入院される。発症から25年。ここで、状況は劇的に変わりますね。

会話ができるようになりました。姉の入院前に読んでいた精神医学の本に「無為自閉」という言葉が出てきたのをよく覚えているのですが、これは、「何もなさず、自らに閉じこもる」という意味で、要するに外からの言葉に一切反応しなくなって、行動もしなくなっちゃうということ。姉はどんどんそこに向かっているような気がしていて、すごく怖かった。ところが、3カ月入院して戻ってきたら、普通に会話ができたので、びっくりしましたね。もちろん、元通りとまではいきませんけどね。

――その後、2011年にお母様が亡くなり、2014年にはお姉様にステージ4の肺ガンが発見されます。 

姉の状態はもっともっとよくなると僕は思っていたんですよ。さっき言ったように、人間というのは社会の中で生きているから人間らしくなる。病院に併設されている作業所などで他の人と一緒に段ボールを作ったりすれば、もっとよくなったはずだと思うんです。僕は行くように勧めた。でも、姉はどうしても行きたがらなかった。そうこうしているうちに、肺ガンになってしまった。だから、姉は道半ばで逝ってしまったなという思いが僕にはあるんです。

せっかく生まれきたのだから

――お姉様は監督にとってどんな存在だったのでしょう。

超えられない存在でしたね。やさしくて、頭がよくて。小さい頃から本当によく遊んでくれた。学校の成績も優秀だった。よく比較されて怒られたものです。まさかこんな状況になるなんて、思いもよりませんでした。

――大好きな、尊敬するお姉様が、本来の姿ではなくなったわけですものね。

せっかく生まれてきたのだから、姉には少しでもいい時間を過ごしてほしい。楽しい時間を過ごしてほしい。そのために、自分には何ができるのだろうか。ずっとそう考えていました。

――ビデオ映像には、そんな監督の気持ちが込められているように思います。撮影に当たって、特に何か目的意識のようなものはあったんでしょうか。

姉の症状について、どうしたって僕が言うことよりも、医師である両親のいうことのほうを、みんな信じるわけです。姉は統合失調症らしいと僕が言っても、両親が違うって言えば、それが事実になってしまう。じゃあ、証拠を残そうということで始めたんですね。最初はビデオでなく録音。録音機能付きのウォークマンを使いました。冒頭の罵り声がそうです。

――「これは録らなきゃ」とすかさずスイッチを押したんですか。

ああいうことは日常茶飯事だったんで、いつでも録れる状態にはあったんですよ。ビデオを回したときには、その前に専門学校でドキュメンタリーの撮り方は勉強していたんですけど、あのときにドキュメンタリーを作ろうという意識はありませんでした。とにかく撮っておいて、記録を残しておこうと。場合によっては、何年後か何十年後かに精神科医に見てもらい、治療に役立ててもらおうとも思った。

――でも、いま、こうして作品として完成し、公開されるわけですね。

作品化のきっかけとなったのは、姉が亡くなった翌年の2022年に山形ドキュメンタリー道場に参加したことです。映像の一部をプレゼンしたところ、反響があったので、山形国際ドキュメンタリー映画祭に向けて追加撮影と編集を行い、現在の形に仕上げました。まだまだ粗削りですが、見るに値するものが映っていると確信しています。

――切れば血が出る、渾身のドキュメンタリー。多くの人に見てもらえるといいですね。ありがとうございました。

「どうすればよかったか?」藤野知明監督 単独インタビュー

どうすればよかったか?

2024、日本

監督:藤野知明

公開情報: 2024年12月7日 土曜日 より、[東京]ポレポレ東中野、ヒューマントラストシネマ有楽町他 全国ロードショー

公式サイト:https://dosureba.com/

コピーライト:© 2024動画工房ぞうしま

配給:東風

文責:沢宮 亘理(映画ライター・映画遊民)

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