植木等を“父”として
※12月7日に逝去した小松政夫さんを追悼し、2010年の「したまちコメディ映画祭」で取材した際に書いたトーク記事を、一部加筆した上で掲載します。
2010年9月16日から20日まで開催された「第3回したまちコメディ映画祭」。18日には「クレージーキャッツ」の特集上映があり、会場となった東京・浅草中映劇場は、多くの熱心なファンで埋め尽くされた。
プログラムは「クレージー黄金作戦」(67)、「喜劇 泥棒大家族天下を盗る」(72)、「図々しい奴」(64)と、いずれも今ではなかなか見られない貴重な3本。1本目の終了後には、植木等の付き人だったコメディアンの小松政夫がゲストとして登壇し、本特集をプロデュースした高田文夫を聞き役に爆笑トークを繰り広げた。
「はい、また、また、また、お会いしましたね」と、ご存じ淀川長治の物真似で登場し、いきなり会場を沸かせた小松は、芸能界入りの経緯から話し始めた。
役者を目指して上京したものの、金がなくて劇団にも入れない。そこで自動車のセールスマンになるが、天性の話術を発揮し、成績はトップクラス。現在のお金に換算し、ひと月180万円ぐらい稼いでいた。
その頃、テレビで見てファンだったのがクレージーキャッツ。中でも植木等が大好きだった。ある日、週刊誌で「植木等の付き人兼運転手募集」という小さな求人記事を発見する。
昭和39年、東京オリンピックの年。クレージーも植木も人気絶頂の、まさに黄金時代だ。
「“真面目にやるなら面倒見るよーーーー”って書いてあった(笑)」。行ってみると600人も応募者がきている。運転手とは言っても、弟子のようなものだろう思い、タイツを持参した。「“ちょっと踊ってごらん”なんて言われたときのためにね」。
ところがテストも何もなく、即決で採用となった。高給取りだったので、身だしなみもよく、言葉遣いも洗練されていた小松。ボサボサの髪、よれよれの服でやってきた他の応募者を全く寄せ付けなかったのだとか。
当時、植木は過労で入院中。記念すべき初対面の場所は病室だった。リクライニングのベッドを起こし、低い声で「ああ、植木です」。
ブラウン管やスクリーンの植木とは全然違う、ダンディな素顔。背後の窓からの日差しが植木を後光のように包み込んでいたのが印象に残っている。
父親を早くに亡くした小松に向かって植木は、「私を父と思えばいい」と一言。「この人に一生ついていこうって思いましたね」。
「それで、“俺のことを何て呼ぶ”?って言うから、“先生”と答えると、“先生なんて言いやがったら張り倒すぞ!”って。“あ、これは間違いなく植木等だ”(笑)」。で、呼び名は「親父さん」になった。
超売れっ子スターの付き人である。睡眠は1週間でたった10時間。そんな多忙な生活が続いていたある日のこと。小松がセールスマン時代のエピソードとして口にしたセリフが植木に受けた。
それが、あの有名なギャグ「知らない、知らない、知らない」である。その後、小松は植木に促されて、そのギャグをテレビ局のディレクターにプレゼン。大受けだった。
「2週間後、テレビ番組の台本をチェックしていたら、『ここで小松、“知らない、知らない”をやる』って書いてあった(笑)。びっくりしましたね」。
この台本を書いたのが、今回のしたまちコメディ大賞受賞者で、11日に急逝した谷啓だった。クレージーキャッツきってのアイデアマンだった谷は、青島幸男や塚田茂とともに、しばしば構成作家を務めていたのだ。「それからは毎週、“知らない、知らない”ですよ」。
こうして徐々に売れ始めた小松。ある日突然、植木から付き人の解任を告げられる。小松を渡辺プロダクションのタレントとして正式契約する手配をしてくれたのだ。
「ブワーッと涙が出てきましてね。危ないから運転していた車を止めて、しばらく泣いていました」。後部座席で、小松が泣き止むのをじっと待っていた植木。しかし、やがてしびれを切らしたのか、「別に急がないけど、そろそろ行くかっ」と叫んだそうだ。
コメディアン小松政夫の誕生には、こんな涙と笑いのエピソードがあったのだった。
歓声と爆笑に包まれながら、1時間におよぶトークショーは終了。満場の拍手を浴びて降壇した小松に向かって、司会のいとうせいこうは、「来年も小松政夫さんにはぜひ来ていただきたい」とラブコールを送った。
小松さん、長い間ありがとうございました。お疲れさまでした。安らかにお眠りください。
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