日本映画

映画レビュー「水俣曼荼羅」

2021年11月26日
終わりの見えない裁判闘争と並行して、水俣の人々の人生模様が描かれる。原一男が20年かけて完成させた渾身のドキュメンタリー。

水俣に描かれる人生模様

開巻まもなく、当時は厚労大臣だった女性政治家が映し出される。水俣病のドキュメンタリーであるから、厚労大臣が登場することに不思議はない。

だが、この人物の“民の命なんかどうでもいいわ”とでも言いたげな、冷淡な、人を小馬鹿にしたような目つきを見ると、なかなか象徴的なカットだと思わざるを得ない。

要するに、患者切り捨て。「排除します」の政治である。水俣病患者を補償の対象から外そうという行政のスタンスは、半世紀以上変わっていない。

水俣病なのに水俣病と認定されない不条理。その根拠となったのが“末梢神経説”だった。だが、それは間違いで、新たに“脳の中枢神経説”を打ち出したのが、熊本大学医学部の浴野教授だ。

3部構成の第1部「病像論を糾す」では、裁判で初めて採用された新説を、浴野教授が患者を使って実証していく様子が、まるで教育映画のような実験風景やグラフとともに紹介されていく。

水俣病が実際にどんな病気なのかを理解する上で欠かせないパートであり、浴野教授が亡くなった患者の脳を包丁で(!)スライスするシーンは本作のハイライトの一つだ。

第2部「時の堆積」では、患者のプライベートライフに焦点があてられる。小児性水俣病患者の生駒さん。彼に新婚旅行の話を聞くシーンは、原一男監督の真骨頂というべき“遠慮会釈のなさ”が遺憾なく発揮されている。

「初夜はどうだった?」と問い、「何もできなかった」と答える生駒さんに、「その気にならなかったのか?」としつこく迫り、さらには奥さんの父親の国籍にまで踏み込む。

隙を見て素顔を引き出すのが普通のドキュメンタリーだとしたら、強引に突っ込んで真実を引っ張り出すのが原一男のドキュメンタリーなのだ。

原監督は体も張っている。水銀ヘドロを埋め立てた水俣湾の現状を確かめるべく、自ら海に飛び込み、撮影しているのだ。

結果は悲観的なものだった。だが、国はこれを放置し続けるだろう。そして、やがては世界中の人々が水銀に冒されるかもしれないと、原監督は警鐘を鳴らす。

第3部「悶え神」の中心人物は、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん。“恋多き女”として鳴らすしのぶさんの恋バナを、原監督が根掘り葉掘り聞き出していく。

「いっぱい好きになって、それでも実りませんでした」とシンガーソングライターが歌う曲は、しのぶさんの作詞。聴き入るしのぶさんの目に涙が光る。ぐっと胸に迫る場面だ。

さて、本作のメインストーリーというべき裁判は勝訴判決となる。だが、それで問題が解決するわけではない。

裁判の後、浴野教授とともに水俣病を研究した二宮医師が集会で挨拶に立つシーンがある。二宮氏は「神経をやられるとオ××コしても擦っただけみたいな…」と口走る。テレビならカット間違いなしの音声だ。

話しながら泣いている。水俣病の苦しさ、悲惨さを、酔いに任せて直截(ちょくせつ)に語った二宮医師。会場はそんな二宮医師に拍手を送る。温かい反応にほっとする。

厚生省の会見シーンでは怒りが炸裂する。役人のメモに「謝らない」と書いてあるのを見つけ、原告団の女性がメモの紙をひったくるのだ。クイックプレイである。意表を突かれた相手が呆然とする。すごい。これぞドキュメンタリーだ。

締めくくりは、作家の石牟礼道子氏。2018年2月に亡くなっているので、この映像はまさに最晩年の姿だと思われる。“悶え神”とは何か。最後の力を振り絞って語る姿に圧倒される。

撮影・編集に20年かけた。6時間超の大作だ。だが、水俣病を描き切ったわけではない。

水俣病をめぐる闘いはまだ終わっていない。患者の苦しみも続いている。国のスタンスは今後も変わらないだろう。ならば、せめて“悶え神”の精神を共有させていただくか。

映画レビュー「水俣曼荼羅」

水俣曼荼羅

2020、日本

監督:原一男

公開情報: 2021年11月27日 土曜日 より、2021年11月27日(土)より、シアター・イメージフォーラム他 全国ロードショー

公式サイト:http://docudocu.jp/minamata/

コピーライト:© 疾走プロダクション

文責:沢宮 亘理(映画ライター・映画遊民)

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