田中泯の内面に迫るドキュメンタリー
「メゾン・ド・ヒミコ」(2005)への出演以来、親交を重ねてきた犬童一心監督が、世界的ダンサーの素顔に肉薄するドキュメンタリー。独創的なダンスはどのように生み出されるのか。そのダンスの何が人を魅了するのか。国内外を巡り、2年簡にわたり公演を記録してきた犬童監督が、田中泯の内面を掘り下げる。
その場所に一生懸命いる
――田中泯さんは「メゾン・ド・ヒミコ」(2005)に出演されていますよね。
「メゾン・ド・ヒミコ」では、上手な俳優よりも存在感のあるカリスマ性のある人に出てほしかったので、田中泯さんをキャスティングしました。日本アカデミー賞のプレゼンターとして出席していたのを見たときに、「カッコいい人だな。オーラのある人だな」と思ったんです。それで出演交渉に山梨まで行くと、野良仕事で真っ黒に日焼けした泯さんがいた。
そのとき、泯さんは「自分は演技はできない。だけど、その場所に一生懸命いることはできる。それでいいですか」と言ったんです。「その場所に一生懸命いる」という言い方がすごくよかった。まさに自分が望むイメージどおりの人でした。
映画初出演の「たそがれ清兵衛」(2002)でも、最後に死ぬシーンなんて無茶苦茶カッコいいんですけど、本人は演技しているつもりが全くなくて、あれはダンスを踊っている。“一生懸命いる”ということは、ダンスをするということなんですね。
――田中泯さん流の言い方なんでしょうね。
今は映画出演を重ねてきて、多少は演技しているところがあるでしょうが、あの頃は自分の中にダンスしかなかったと思う。「メゾン・ド・ヒミコ」の1カット目、廊下から部屋に入ってくる簡単なカットですが、それだけで圧倒的なんですよね。それが泯さんの言っている“そこに一生懸命いる”というやり方なんだ。それはすぐに分かりましたね。これは誰にも真似できないなと。
――まさに“名付けようのない踊り”。
ええ、そうですね(笑)。
考えに考え抜いて踊っている
――「名付けようのない踊り」を撮ることになった経緯を教えてください。
ポルトガルのアートフェスティバルに行くから、夫婦で来ないかと誘われたのが最初です。映画を撮ってくれという話ではなく、ただ遊びに誘われたという感じでした。
――それだけ親しい関係ができていたわけですね。
「メゾン・ド・ヒミコ」を撮って15年近くたっていました。泯さんの踊りはよく見に行っていたので、そこで時々お会いしていた。それで声をかけてくれたんですね。
でも、ポルトガルで泯さんが踊るなら、せっかくなので、撮影しようと。その時点で映画にしようとは考えてなくて、ただ踊りを撮ってみたいなと思って撮ったんですが、東京に帰ってきて15分ぐらいに編集して見たら、これがすごくよかったんですよ。
これは2時間ぐらいの長編映画にできるんじゃないかと。ただ、そのときは、泯さんの過去を描いたドキュメンタリーを作りたいという気持ちはなくて、ダンスの映画を作れたら面白いなと思っていた。
2年間で30回ぐらいの踊りを撮って、どうまとめるかを考えた。泯さんの書いた本を、項目別にバラして、ピックアップし、ナレーション用のシナリオを作り、後から映像をつなげていきました。
――書き留めておきたいような珠玉の言葉が次々と発せられていきますね。
ほとんどが泯さんの本の中に出てくる言葉です。不思議なのは、泯さん自身が書いた本なのに、書いたことをあまり覚えていない。だから、すごく新鮮な気持ちで読んでいるんです。
――踊る人であると同時に、言葉の人でもあるんだなと思いました。
そのとおりです。裸になって、頭剃って、眉剃って、ペニスを布で巻いて踊るという昔の映像なんか、ものすごく衝動的に強烈なことをやろうとしているように見えるかもしれませんが、実際は考えに考え抜いた末にやっている。決して衝動的にやっているわけではないんです。
オイルの中で踊る“オイルプール”では、重油の中で踊るとはどういうことなのかをよく考えている。慎重に重油の深さとか、こうしたら目に入るとか入らないとか、入念に計算して、いろいろ積み重ねてたいった上で、それでも重油で踊るのは怖いって言うんです。
やる前はすごく怖がっている。だけど、始めちゃうとその瞬間から大丈夫なんですよね。
すべて考え抜いてやって、やり終えた後はきちんと言語化して、本も書く。そういう知的な作業もしている。
波も風もダンスのように見えてくる
――田中泯さんは自分の子ども時代の記憶を“私のこども”と呼んでいますが、映画ではこの部分をアニメーションで描いていますね。
ナレーションを聞かせるだけじゃイメージが伝わらないと思い、アニメーションを導入しました。“私のこども”というキャラクターは、八王子の山の中から切り離すことができない。
いじめられっ子だった泯さんが一人で遊んでいたのは山の中。“私のこども”には山の中の自然が付属している。アニメーションを使えば、そんな泯さんの中の“私のこども”に近づけるかなと思ったんです。
また、アニメーションを使ったもう一つの理由として、僕が泯さんの踊りを見ているときの感覚を、映画の中に取り込みたいという狙いもありました。
泯さんの踊りにはストーリーがないので、途中で目を瞑(つぶ)って別の世界を彷徨ったりすることがよくある。踊りを見ているうちに別の世界へと誘(いざな)われるんだけど、また泯さんの踊りへと戻ってくる。その逸脱して帰ってくるという感覚が、アニメーションを挿むことで表現できるかなと。
――アニメーションでは田中泯さんの内面を覗き見ることができたように思いますが、長いお付き合いの中で、監督の見てきた田中泯さんとはどんな人でしょうか。
とても自然に近いところにいる人だなと思います。農業をやって土に近いところで生活をして、芸術になる前の原始時代の純粋な踊りへと向かっている。そのせいか、泯さんの踊りを撮っていると、まるで石を撮っているような気分になることがあります。
――田中泯さんの踊りを見ていて、そのすごさは伝わってくるのですが、どうすごいかを説明するのは難しいですね。
泯さんの踊りを見ていると、何か滝に打たれたような気持ちになる。すごくスッキリして、心のバランスがとれた状態になれるんです。ストーリーというものから完全に離れるということもあるかもしれません。物語性から離れて、そこにすっと身を置くことで、バランスのとれた自分に戻れる。
それから、泯さんの踊りを見ていると、自然現象がみんなダンスのように見えてくる。たとえば、波が打ち寄せる映像、木が風に揺れる映像、すべてダンスのように見える。ふだんは、ただ気持ちいいと思って見ているんですが、どういう気持ちよさなのかを考えてみると、それはダンスを見ている気持ちよさなんだと気付くんです。
すべてはダンスのために
――それは泯さんのダンスが自然と一体化しているということですか。
そうですね。だから、たとえば打ち寄せる波を見るときでも、同じ動きを延々と反覆しているように思いがちですが、実は一つひとつの波は全部違う。それは泯さんの踊りと同じなんですね。つねに変化し続けていて、同じ踊りを繰り返すことはない。流れ落ちる滝も同じです。一瞬たりとも同じではない。
――ひとつの居場所に留まらないというのは、田中泯さんの魅力ですね。
その点につながるかもしれませんが、泯さんはアンチという立場をとりません。存在の仕方そのものが、世の中に対する提言のように見えますが、決してアンチではない。
泯さんが泯さんなりのやり方を選び取った結果、世の潮流に抗うことになるかもしれませんが、それは何かに対抗しようと思ってやるわけではないんです。あくまでダンスのためなんです。
ダンスのために、農業をやって、身体を作る。ダンスをしているときが最高に幸せだから、幸せな状態を維持するために、そのように生きている。好きなことしかしていないんですよ、泯さんは。
映画の中で、踊った後にすごく楽しそうにしていますけど、あそこまで幸せになれる人ってなかなかいないと思う。ああいう状態をずっと続けているのがすごいですね。
――ダンス以外の余計なことは考えないんですね。
自分のダンスができればそれでいい。それ以外のことは興味がない。農業を始めたのも、お金を稼ぐために仕事をして、へとへとになって、その疲れた身体でトレーニングをして、というサイクルが無駄だと思ったからでしょう。
農作業は自然に体も鍛えられるし、自給自足の生活もできる。好きなときに踊ることもできる。泯さんにとっては必然的な選択だったんだと思います。
――田中泯さんのような生き方をしてみたいと思いますか。
したいと思っても、なかなかできるものではないでしょう。でも、アンチにならないという意識は自分の中にもあったので、そこは気が合うのかなと思います。アンチを打ち出すことで、できなくなったり、失ったりするものは、すごく多い。だから僕はアンチにはなるまいと思っています。たぶん泯さんはそういうことすら考えずに自然にやっているのでしょうけどね。
名付けようのない踊り
2021、日本
監督:犬童一心
出演:田中泯/石原淋、中村達也、大友良英、ライコー・フェリックス/松岡正剛
公開情報: 2022年1月28日 金曜日 より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿バルト9、Bunkamura ル・シネマ他 全国ロードショー
公式サイト:https://happinet-phantom.com/unnameable-dance/
コピーライト:© 2021「名付けようのない踊り」製作委員会
配給:ハピネットファントム・スタジオ