病気という形で社会への違和感を表現
※新作「港町」が公開中の想田和弘監督によるドキュメンタリー「精神」(2008)公開時に書いたインタビュー記事を、一部加筆した上で掲載します。
「足が太い」と言われ拒食症になった女性。生まれたばかりの我が子を手にかけた母親。寝食を忘れ勉強に没頭し燃え尽きた男性。
さまざまな原因で心を病んだ人たちに、一人の映画作家がカメラを向けた。打ち合わせもなく、シナリオも用意せず、ただ“観察”するように撮影された映像。そこに記録されたのは、きわめて真っ当な悩みをかかえ、真っ当に生きようとする人々の姿だった。
燃え尽きているのに働いている
――精神障害をテーマにした理由は何でしょう。
20歳の頃、東京大学新聞の編集長をしていた。寝る時間もないほど多忙を極める日々を過ごしていたが、ある日突然、虚脱感に襲われ何もできなくなった。学内の精神科に駆け込むと、燃え尽き症候群と診断された。
このときの経験で、精神障害に対する僕の見方は180度変わった。それまで、自分は強い人間であり、弱い人間だけが精神障害者になると思っていた。ところが実際はそうではなかった。
それから十何年かして、テレビドキュメンタリーを撮る仕事をしていた僕は、再び精神的に追いつめられた。十分な睡眠時間もなく、プロデューサーからは怒鳴られる毎日。このままだとまた病気になると思った。
ふと回りを見渡すと、おかしのは僕だけじゃなかった。すでに燃え尽きてしまっているにもかかわらず働いている人。精神科に通っている人。さらには自殺する人。みんなが危機的な状態に追い込まれていた。
そこで直感的に思った。「これは、日本全体を覆う精神的な病なのかもしれない」と。そして、精神障害をテーマとしたドキュメンタリーを撮ろうと思い立った。
ナレーションもリサーチもなし
――いわゆるテレビドキュメンタリーとは全く異質な作品ですね。
テレビドキュメンタリーには3つの点で不満があった。第1にスタイル。ナレーションを付け、音楽を付け、説明テロップを流す。「中学生にもわかるように」というのが合言葉だった。
そこまで懇切丁寧に説明する必要があるのか。視聴者はそんなに理解力が乏しいのか。納得できなかった。
ショックだったのは、視聴者リポートに書かれた感想が、僕の書いたナレーションそのままだったこと。僕の書いたナレーションを、自分の感想のように書いていたことに唖然とした。
あるとき、完成した番組をチェックするときに、たまたまミキサーのスイッチが入っておらず、ナレーションがない状態で見ることになった。そしたら、その方がナレーション付きよりもずっと面白かった。「何だ、これでいいじゃないか」と思った。
出演者の顔にモザイクをかけるのもイヤだった。モザイクはタブー感を増幅するだけ。見ちゃいけないものという観念を強化するだけ。それはしたくなかった。
第2に作り方。事前に過剰なまでのリサーチをする。被写体とも打ち合わせをして、「これは撮れる」「これは撮れない」と撮影対象を絞り込んだ上で、シナリオを書き、エンディングまで用意して、撮影に行く。
しかし、いざ現場に行ってみると、予想とは全く違うことが起こる。この方が断然面白い。しかし、それを撮って帰ると、「何でプラン通りに撮ってこないんだ」と怒られる。ストレスばかりがたまった。
第3にテーマ。前作「選挙」にしても「精神」にしても、テレビではたぶん企画が通らない。テレビ番組は不特定多数の最大公約数に向けてつくるものだという固定観念があって、誰にでもウケるものしか作ろうとしないからだ。
もとは先鋭的なアイデアだったとしても、これでもかと噛み砕いて、流動食みたいにしてしまう。視聴者は、あごを使って噛む必要がないから、どんどん咀嚼力が弱まっていく。そして、ナレーション通りにしか受け取れなくなってしまう。
だから、「選挙」も「精神」もテレビドキュメンタリーとは全く違う手法でやりたかった。それをやるには、自分で金を出して、劇場で映画として見てもらうしかないと思った。
真っ当な悩みをかかえている
――「精神障害者と健常者との間には明確な壁がある」。この映画を見るまで、そんな先入観がありましたが、それが見事に覆されました。こういう人たちは自分のまわりにも大勢いると思います。
僕も撮影前は、理解しがたい行動をとる人たちを想像していた。確かに深刻な症状を呈している人もいないではない。そういった時期を経験した人もいる。
だけど、それは一部の人、あるいは一過性の症状であって、少なくとも撮影に応じてくれたのは、身近に感じられる人たちばかりだった。どの人もそんなに僕と変わらない。
真っ当な疑問をもち、真っ当な悩みをかかえ、真っ当に生きようとしている。かえって、病をこやしにして、人生を豊かにしているような面すらある。
いきなり話しかけて許諾を得たら撮影
――リハーサルなしで撮影したのですか。
撮影の前に準備したり、被写体となる人と打ち解けたりということはない。僕は自分の映画を「観察映画」と呼んでいるが、これは「体感映画」とも言える。
今回の場合だと、僕が「こらーる岡山」という精神科クリニックを訪ねて、患者さんに会って、話を聞いて、去って行く――この個人的な体験を、映画的な空間に再構築して、観客がそれを追体験できるような作品をめざした。
撮影の手順としては、いきなり待合室に入り、片っ端から話しかけていく。自己紹介し、映画の趣旨を説明して、許諾を得た人にカメラを向けていく。
その時点では、その人が患者かどうかも分からない。撮っていく過程でこの人はスタッフだと気づくこともあった。
とにかく、事前の情報は一切入手せず、カメラを回しながら、被写体となった人を発見していく。それが臨場感を醸し出すための方法論になったと思う。
――患者たちがこんなに饒舌に話すとは思いませんでした。
健常者として社会生活を送っている人たちの方が、自分の気持ちを表現するのは苦手なのだと思う。つまり、つらくても「つらいんです」とはなかなか言えない。
上司から「調子はどう?」って聞かれれば、本当は不調であっても「まあまあです」と答えたり、弱々しげに笑いながらちょっと首を傾げて見せたり。そのくらいのことしかできない(笑)。
ところが病気になると、それではすまない状況に追い込まれる。診察を受けて、症状を聞かれたら、喋らざるを得ない。言語化する過程で、自分がなぜつらいのか、何が受け容れがたいのかが、明確になってくる。
それは、自分の気持ちや人生観と直接向き合うプロセスでもある。つまり、精神障害者は自分自身と向き合うトレーニングができている。
僕らは自分自身と自分の心との間がカーテンで遮られている。そのカーテンを取り払った状態に障害者の人たちはいるのではないか。
芸術家と精神障害者との共通性
――その意味では、芸術に携わる人と精神障害者との間には、精神のあり方において共通するものがあるのでは。
そのへんは非常に共通性を感じた。芸術家は社会に対する違和感を作品という形で表現している。精神障害者は病気という形でそれを表現している。
つまり、映画を作る代わりに病気になっている。病気になることで自分自身と自分の心との間を遮っているカーテンを取り除くプロセスと、作品によってそれを取り払うプロセスはすごく似ている。
――次回作の予定は。
平田オリザさんと彼が主宰する劇団「青年団」についての映画で、タイトルは「演劇」(仮題)。もう撮影は終わっていて、これから編集に入る。来年には完成する予定だ。
たぶん、「選挙」「精神」「演劇」は、3部作を構成することになると思う。「選挙」は、社会の中心にいて、社会の価値観に疑問を持たない人たちについての映画。
逆に「精神」は、社会の周縁にいて、社会の価値観を受け容れられない人たちについての映画。そして「演劇」は、中心と周縁の中間地点にいて、両方の世界にチャンネルを持っている人たちについての映画だ。
芸術家集団なので、作品を発表する上で社会と関わらざるを得ないが、100%社会に同化してしまうと表現活動ができない。そういう意味で中間地点にいる。3本の作品を並べてみると、日本社会の多面的な様相が浮かび上がるのではないかと思っている。
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